宮崎駿監督、引退会見一問一答!「僕の長編アニメの時代は終わった」(朝日新聞本紙より全文) - アイドル 芸能 見張り隊

宮崎駿監督、引退会見一問一答!「僕の長編アニメの時代は終わった」(朝日新聞本紙より全文)

宮崎駿監督は引退会見で、あと10年は仕事をしたいと語っています。

自宅と仕事場を自分で運転して往復できる間は、仕事を続けたい。その目安を一応“あと10年”としたという。
どうやら、映画はつくらないが、やりたくなったものや、やれるものはやろうと思っているとした。
ただ、休息をとらないといけない時期だとも…。

「風の谷のナウシカ」の続編をぜひとも見たかったのですが、それも難しいようですね。

風立ちぬ/宮崎駿

風立ちぬ/宮崎駿

(関連商品)

(以下引用)
宮崎駿監督引退会見の一問一答は、以下の通り。

 宮崎駿監督 「公式引退の辞」というメモをみなさんにお渡ししていますので、質問をしていただければ何でも答えるという形で、ごあいさつにしたいと思う。僕は何度もやめると言ってきた人間なので、どうせまただろうと思われるんですけど、今回は本気です。

 鈴木敏夫プロデューサー 始まったものは必ず終わりが来るというもんだと思います。落ちぶれて引退するのはかっこわるい、と思っていましたので、いま「風立ちぬ」が公開されて、いろんな方に支持されている時に決めたのは、良いのではないか。今後、ジブリはどうなっていくのかという疑問を持たれると思うが、現在、11月23日公開の高畑勲監督の「かぐや姫の物語」を鋭意製作中で、めどが見えてきた。必ず、11月23日に公開する。企画は発表できないが、来年の夏を目指して、もう1本製作中であるとお伝えしたい。

 ――監督から子どもたちへのメッセージをお願いします。

 宮崎 そんなにかっこいいことは言えません。何かの機会があったら、わたしたちが作った映画を見てもらえれば、何か伝わってくれるかもしれません。

 ――長編の監督を辞めるという理解でいいのでしょうか。また、これからやっていきたいことは?

 宮崎 (「公式引退の辞」に)我ながらよく書いたなと思うのが「自由」です。やらない自由もある。車が運転できる限りは毎日、アトリエに行こうと思っている。それで、やりたくなったものや、やれるものはやろうと思っている。ただ、休息をとらないといけない時期で、休んでいるうちにいろいろわかってくると思う。ここで約束すると破ることになるので、ご理解ください。

 ――「風の谷のナウシカ」の続編を作る予定はありますか。

 宮崎 ありません。

 ――(韓国メディアの質問)韓国にもファンがたくさんいる。韓国のファンに一言。いま韓国で話題になっている「風立ちぬ」の零戦についてのお考えは?

 宮崎 映画を見ていただければわかると思う。いろいろな言葉にだまされないで、今度の映画も見ていただけたらいいなと思います。いろんな国の方々がわたしたちの作品を見て下さっていることは、非常にうれしいと思う。それと同時に「風立ちぬ」のモチーフそのものが、軍国主義が破滅に向かっているところを舞台にしているので、いろいろな思いが、わたしの家族からも、自分自身からも、スタッフからも出た。それにどういうふうに答えるかということで映画を作った。映画を見ていただければわかると思う。ぜひお金を払って見ていただけたらうれしいなと思う。

 ――今後、ジブリの若手監督の作品に、監修、アドバイザーなどで関与することはありますか。

 宮崎 ありません。

 ――「今回は本気です」ということですが、今までとは何が違うのか?

 宮崎 「風立ちぬ」は「崖の上のポニョ」から5年かかっている。その間、ずっと映画を作り続けたわけではなくて、脚本を書いたり、自分の道楽の漫画を描いたり、あるいは美術館の短編をやったり、いろんなことをやっていたとはいえ、やはり5年はかかる。いま、次の作品を考え出すと、5年じゃすまない。次は6年かかるか、7年かかるか、あと3カ月もすれば、73歳になる。これから7年かかると、80歳になってしまう。この前、お話(対談)した「文芸春秋」元編集長の半藤一利さんは83歳ですが、本当に背筋がのびて、頭もはっきりしていて、良い先輩がいる、僕も83歳になってこうなっていたらいいなと思うものだから、(「公式引退の辞」で)あと10年は仕事を続けると言っているだけで、続けられたらいいなと思うが、いままでの延長上には自分の仕事はないだろうと思う。ということで、僕の長編アニメーションの時代ははっきり終わったんだ。もしやりたいと思っても、年寄りの世迷(よま)い言と片付けようと決めている。

 ――引退を正式に鈴木さんと決めたタイミングはいつなのか。どのような会話をしたのですか。

 宮崎 よく覚えていない。鈴木さんに「僕はもうダメだ」と言ったと思う。そしたら、鈴木さんが「そうですか?」と。これは何度もやってきたことなので、その時、鈴木さんが信用したかどうかはわからないが、ジブリを立ち上げた時にこんなに長く続けるつもりがなかったのは確かです。だから何度も、もう引き時なんじゃないか、もうやめよう、と話は2人でやってきたので、次は7年かかるかもしれないことに、鈴木さんもリアリティーを感じたんだと思う。

 鈴木 僕も正確に覚えているわけではないが、「風立ちぬ」の初号試写があったのが6月19日。たぶん、その直後だった思う、宮さんからそういう話があった時、確かにこれまでもいろんな作品で「これが最後だと思ってやっている」という話があった。今回は本気だなと感じざるをえなかった。僕自身が「ナウシカ」から数えるとちょうど30年目にあたる。その間、いろいろあった。「これ以上やるのはよくないんじゃないか」「やめようか」という、いろんな話があった。僕も30年間ずっと緊張の糸があったが、宮さんに言われた時、その緊張の糸が揺れた。僕自身が少しほっとするというところがあった。若い時だったら、とどめさせようとか、いろんな気持ちが働いたかもしれないが、僕の中で「ご苦労様でした」という気持ちが湧いた。僕自身は引き続き、「かぐや姫の物語」を公開しなくてはいけないので、途切れかかった糸をひっぱったりして仕事をしている。実は引退を、みなさんにお伝えする前に、いつどうやって伝えるか話し合った。みなさんにお伝えする前に伝えなくてはならないのは、スタジオのスタッフに対してだと思った。いつやって、いつ伝えるか。僕としては映画の公開前に引退だなんて公開したら、話がややこしくなると思った。社内では8月5日にみんなに伝えた。そして、映画の公開が一段落した時期に、発表できると考えた。そうすると9月の頭になる、そんなふうに考えた。

 ――(台湾メディアの質問)台湾のファンには、引退にすごく残念だ、という声がある。引退後は時間があるので、海外へ旅行も兼ねてファンと交流する予定はありますか。

 宮崎 いいえ。ジブリ美術館の展示に関わらせてもらいたいと思っている。ボランティアという形になるかもしれないし、自分が展示品になってしまうかもしれないが、ぜひ美術館に来てくれたらうれしい。

 ――「風立ちぬ」が最後になるという予感はありましたか。監督の引き際の美学とは?

 鈴木 僕は宮さんという人と35年付き合ってきて、彼の性格からして、ずっと作り続けるんではないかと思っていた。たぶん、死んでしまう間際まで作り続けるんではないかという予感の一方で、もしかしたら、これを最後だと宣言して別のことにとりかかる、そのどっちかだろうと思っていた。「風立ちぬ」という作品を作っていて完成を迎え、それで先ほどのような話になったわけですが、それは僕の予想の中に入っていたので、素直に受け止めることが出来た。

 宮崎 映画を作るのに死に物狂いで、その後どうするかなんて、考えていなかった。それよりも映画ができるのか、映画を作るのに値するのか、の方が重圧だった。

 ――(ロシアメディアの質問)外国のアニメーション作家から影響を受けたと聞きますが、ユーリ・ノルシュテイン(ロシアの映像作家)から受けた影響は?

 宮崎 ノルシュテイン監督は友人。負けてたまるかという相手で……。彼はずっと「外套(がいとう)」(という作品)を作り続けている。ああいう生き方があるんだなと思う。実は今日、ここに高畑(勲)監督も一緒に出ないかと誘ったが、「冗談じゃない」という顔で断られた。彼はずっとやる気だなと思っている。

 ――最も思い入れのある作品は何ですか。すべての作品を通したメッセージはありますか。

 ――「風立ちぬ」には監督ゆかりの人がキャスティングされているが、何か思いがあったのですか。

 宮崎 毎日テレビを見ているとか、日本の映画をいっぱい見ているとか、そういう人たちは気がつかないと思う。僕は東京と埼玉の間を往復して暮らしているが、映画もテレビも見ていない。自分の記憶によみがえってくるのはモノクロ時代の日本の映画。昭和30年以前の作品。暗い電気の下で、生きるのに大変な思いをしている若者や男女が出てくる映画ばかり見ていたので、そういう記憶がよみがえる。それといまのタレントさんのしゃべり方を聞き比べると、そのギャップに愕然(がくぜん)とする。なんという存在感のなさだろうと。(声優を務めた)庵野(秀明監督)もスティーブン・アルパートさんも存在感だけです。かなり乱暴だったと思うが、その方が僕にとっては映画にぴったりすると思った。ほかの人が駄目だったということはない。菜穂子をやってくれた人(瀧本美織)はみるみるうちに菜穂子になってしまって愕然とした。そういう意味で、「風立ちぬ」はドルビーサウンドだけど、ドルビーではないものにしてしまう、周りから音は出さない、ガヤというのはガヤガヤやザワザワという音ですが、20人も30人も集めてやるんじゃなくて、音響監督は「2人で済んだ」と言っていた。つまり、昔の映画は、そこでしゃべっているところにしかマイクが向けられないから、周りでどんなに人間が口を動かしてしゃべっていても、それは映像に出てこなかった。その方が世界は正しい。僕はそう思う。それを24チャンネルになったから、あっちにも声をつけろ、こっちにも声をつけろ、それを全体にばらまくという結果、情報量は増えているけれども、表現のポイントは、ものすごくぼんやりしているものになっている。美術館の短編をいくつかやっているうちに、これ(シンプルな音作り)でいけるんじゃないかと私は思っていたが、プロデューサーがためらわずに「それでいこう」と言ってくれたのが本当にうれしかった。音響監督もまさに同じ問題意識を共有できていて、それができた。こういうことってめったに起こらないと思う。いろんな部署の責任者、例えば、色、背景、動画のチェック、制作デスクの女性も、音楽の久石(譲)さんとも円満な気持ちで仕事を終えた。こういうことは初めて。もっととんがって、ギスギスした心を残しながら終わったものだが。僕はつい僕のお通夜に集まったようなスタッフだと言ったのだが、20年ぶり、30年ぶりのスタッフが参加してくれた。映画をつくる体験として、まれな良い体験として終われたので、本当に運が良かったと思っている。

 ――(香港メディアの質問)「ポニョ」が香港で公開される時にインタビューをしましたが、その時より痩せた気がします。いまの健康状態はどうか?

 宮崎 いまの僕は63・2キロ。50年前、アニメーターになった時は57キロだった。60キロ超えたのは結婚して3食食べるようになったせい。で、一時は70キロを超えた。その頃の写真を見ると、醜い豚のようだと思ってつらい。映画を作っていくために体調を整える必要があるから、外食をやめた。朝ご飯はしっかり食べて、昼は家内がつくった弁当、夜は家で食べる。ご飯は食べないでおかずだけ食べるようにした。それで別にきつくないことがわかった。そしたらこういう体重になった。女房の協力のおかげなのか、陰謀なのかわからないが、これでいいと思っている。最後57キロになって死ねればいいなと思っている。スタートの体重になって死ねればいいと思っている。健康はいろいろ問題がある。あるけれど、とても心配してくれる人がいて、よってたかっていろいろやらされるので、しょうがないからそれに従ってやっていこうと思っている。

 ――いまは健康ということですか。

 宮崎 映画を1本作るとよれよれになる。どんどん歩くと、体調が整ってくるが、この夏はものすごく暑くて(別荘のある)上高地に行っても暑かった。呪われていると思った。まだ歩き方が足りない。もうちょっと歩けばもう少し元気になると思う。

 ――先ほど「町工場のオヤジ」と自らを称したが、町工場のオヤジがあえてこの夏、ジブリから出している(小冊子の)「熱風」を通じて、「憲法を変えるのはもってのほか」と題した意見を発信した理由はどこにあるのでしょう。

 宮崎 「熱風」から取材を受けて、自分の思っていることを率直に述べた。もうちょっと考えてきちんとしゃべれば良かったが、「あぁ、駄目だよ」という話しかしなかった。だからああいう記事になった。別に、訂正する気もない。じゃあ、それを発信し続けるかと言われても文化人じゃないので、その範囲でとどめていようと思う。

 ――星野社長に質問ですが、宮崎監督は「日本のディズニー」と称されることもあります。そのように表現されることをどう思いますか。

 星野 「日本のディズニー」というのは監督からは一切しているわけではなく、08年に公の場で宮崎監督が、同じ質問が外国の特派員の記者からあったときに答えている。「ウォルト・ディズニーさんはプロデューサーで、自分の場合は別にプロデューサーがいる。ウォルト・ディズニーは優秀なクリエーター、ナイン・オールドメンに恵まれていた。自分はディズニーではない」と明確に言っている。わたし自身も、ディズニーに20年以上いたし、歴史などを勉強する中で、全然違うと感じている。そういう意味で「日本のディズニー」ではないと思う。

 ――「熱風」の取材に答えた動機は?

 宮崎 鈴木プロデューサーが、中日新聞で憲法について語った。そしたら、鈴木さんのところにネットで脅迫が来るようになった。それを聞いて、冗談で、「電車に乗るとやばい。後ろからブスッとやられるかもしれない」というふうな話をして、でもこれで鈴木さんが腹を刺されて知らんぷりしているわけにいかないから、僕も発言しようと。高畑監督にも発言してもらったのは、3人いると的が定まらないだろうから。それが本当のところ。本当に脅迫したのは捕まったらしいけど、詳細はわからない。

 ――監督の言葉で「力を尽くして生きよ、持ち時間は10年だ」とある。監督が思い当たる10年はいつですか。また、この先の10年をどういうふうになってほしいと思いますか。

 宮崎 僕の尊敬している堀田善衞さんが最晩年、旧約聖書の「伝道の書」を基に、「空の空なればこそ」というエッセーを書いて下さった。その中に、「汝の手に堪ることは力をつくしてこれを為せ」という文章がある。非常に優れてわかりやすい。僕は堀田さんがなんか書いてくれると、「お前、頭悪いからお前にもう一回わかるように書いてあげるから」という感じで書かれている感じがして、この本はずっと私の手元にある。10年というのは、ぼくが考えたことではなくて、自分の絵の先生に「絵を描く仕事をやると、38歳くらいにだいたい限界まで来て、そこで死ぬやつが多いから気をつけろ」と言われた。それで、だいたい10年くらいなんだなと思った。こういうことをぼんやりと思って10年と言った。アニメーションというのは世界の秘密をのぞき見ることだ。風や人の動きや表情やまなざしや、筋肉の動きそのものの世界に秘密があると思える仕事だ。それがわかった途端に、自分の選んだ仕事が奥深くてやるに値すると思えた時期がある。その10年は本当に一生懸命やっていた。これからの10年はあっと言う間に終わると思う。だって美術館を作ってから10年以上経っている、ついこの間、作ったと思ったのに。さらに早いだろうと思う。

 ――今回、引退の決定を奥さんにどのように伝えましたか。子どもたちに「この世は生きるに値する」と伝えたかったというのが根底にあるとのことですが、この数十年の制作の中で、この世も定義も変わったと思う。2013年の世の中をどう見ていますか。

 宮崎 家内には、「(スタッフに)引退の話をした」というふうに言った。「お弁当は今後もよろしくお願いします」と言ったら、「ふん」と言われた。常日頃から「この年になってまだ毎日、お弁当を作っている人はいない」と言われているので、「誠に申し訳ありませんが、よろしくお願いします」と、そこまで丁寧に言ったかどうかは覚えていないが。というのは、もう外食は向かない人間に改造されてしまった。ずうっと前にしょっちゅう行っていたラーメン屋にいったら、あまりのしょっぱさにびっくりして、本当に味が薄いものを食べる体になった。好きなイギリスの児童文学作家で、ロバート・ウェストールという人がいて、その作品には考えなければいけないことが充満している。「きみはこの世に生きていくには気立てが良すぎる」というセリフがあって、少しも誉(ほ)め言葉ではなく、そんなことでは生きていけないぞ、お前は、と言っている言葉だが、本当に胸を打たれた。僕が発信しているのではなくて、実は僕はいろんなものを受け取っているのだと思う。多くの書物、読み物、昔見た映画から受け取っているので、僕が考案したものではない。繰り返し、繰り返し、「生きるに値するんだ」と人は言い、本当かなと思いつつ死んでいったんだと思う。それを僕も受け継いでいるんだと思う。

 ――鈴木さんに。引退発表の場所とタイミングの判断の理由を教えてください。

 鈴木 ベネチアの出品要請がかなり直前のことだった。実は社内で発表し、今日、公式に発表するというのは決めていた。そこに偶然、ベネチアが入ってきた。そこで星野さんと相談した。宮さんには外国人の友人も多いので、ベネチアという所で発表すれば、一度に発表できる。もともと、まず引退のことを発表して、その上で記者会見をやる、その方が混乱が少ないだろうと。当初は東京でやるつもりだった。みなさんにファクスを送って。ただ、ちょうど、ベネチアが重なったもので、ジブリから人が行かなきゃいけない。そこで発表すれば、いろんな手続きが減らすことができるという、ただそれだけのことだった。

 宮崎 「ベネチア映画祭に参加する」と正式に鈴木さんから聞いたのは今日が初めて。

 ――「風立ちぬ」に込めたメッセージは?

 宮崎 自分のメッセージをこめようと思っては映画は作れないんですよね。自分の意識で捕まえることができない。捕まえられるところに入っていくと、大抵ロクでもないことになるんで、自分でよく分からないところに入っていかざるをえないんです。そして映画は最後に風呂敷を閉じなきゃいけない。未完で終わるんならこんなに楽なことはないんですけど。しかもいくら長くても2時間が限度ですから、刻々と残りの時間が減っていく。セリフとして「生きねば」という言葉があったからではなく、それはたぶん鈴木さんが漫画版「ナウシカ」の最後の言葉を引っ張り出してきて、ポスターに僕の書いた「風立ちぬ」という字よりも大きく載せちゃって。だから僕は「生きねば」とは叫んでおりません。そういうことも含めて宣伝をどう展開していくかは、鈴木さんが死にものぐるいでやってますから、僕はもう全部任せるしかありません。そういうわけでいつの間にかこの映画はベネチア映画祭に行っているというね。この前はなんとか映画祭にパクさんと2人で出ませんかと言われて、やあ勘弁してくださいとか、ベネチアについては何にも聞いてなかったんですが、鈴木さんはいやあそうでしたかねと白を切ってますが。

 鈴木 コメント出してますよ、ベネチアに関して。「僕はリド島が大好きです」って。

 宮崎 リド島は好きですよ。「風立ちぬ」に登場する飛行機設計家カプローニの孫が「紅の豚」を見て、「自分のおじいさんのやってた会社の社史です」と、飛行機の図面を分かりやすく描いた大きな本を突然送ってきたんです。要るんならやるぞって。ありがたくいただきますと返事を書きましたけど。それで僕は写真で見たヘンな飛行機の構造を見ることが出来た。胸を打たれましたね。技術水準はドイツやアメリカに比べるとはるかに原始的で、木を組み合わせるとか、そんなものなんですけど、構築しようとしたものがローマ人が考えているようなことをやっているな、この人はと思った。それでジャンニ・カプローニという設計者はルネサンスの人だと思うと、よく理解出来た。つまり経営的基盤のないところで航空会社をやっていくには、相当はったりも法螺(ほら)も吹かなきゃいけない。その結果作った飛行機が航空史に残ったりしてるんだけどね。そういうことも今度の映画の引き出しになっていますね。そんな自分の中にたまりにたまったもので映画はできているものですから、自分の抱えているテーマで映画を作ろうとはあまり思ったことはありません。突然送られてきた一冊の本とか、そういう前にまかれたものが、材料になっていくということだったと思う。

 ――堀田善衞について

 宮崎 さっき経済が上り坂になって、どん詰まりになったなんて、よく分かったように言いましたけど、しょっちゅう分からなくなったんです。「紅の豚」をやる前なんか、世界情勢がどういう風に読むのかが分からなくなっている時に、堀田さんからサッと短いエッセーが届くんです。どこかへ進んでいるんだけど、どこに向かっているのかが分からなくなっている時に、堀田善衞さんという人は本当にぶれずに、現代の歴史の中に書いています。それは見事なものでした。それで自分のいる歴史的な位置が分かることが何度もあった。本当に堀田さんがひょいと書いた「国家はやがてなくなるだろう」とかね、そういうことがその時の自分にとってどれほど助けになったかと思うと、やっぱり大恩人の一人だと僕は今でも思っています。

 ――初期の作品は2〜3年間隔だが、今回は5年。年齢以外に時間がかかる要因があったのか。

 宮崎 いや、1年間隔で作ったこともあります。「風の谷のナウシカ」も「ラピュタ」も「となりのトトロ」も「魔女の宅急便」も、演出をする前に手に入れていた色んな材料がたまっていまして、出口があったらパアッと出ていくという状態だったんです。しかしその後はさあ、なにを作るか探さなければならないという時代になったから、だんだん時間がかかるようになったんだと思います。私は「ルパン三世 カリオストロの城」は4カ月半でつくった。一生懸命働いて、寝る時間を抑えてギリギリまでやると、4カ月半で出来たんですけど、スタッフ全員も若くて、おまけに長編アニメをやる機会は生涯に1回あるかないかだろうからと、みんな頑張ってくれた。アニメーターたちにそれをずっと要求し続けるのには無理があるんです。年も取るし、所帯も持つし、私を選ぶのか仕事を選ぶのかと言われる人間がどんどん増えてきて、今度の映画で堀越二郎という両方選んだ人間を描いたんですが、これは面当てではありません。そういうわけで、どうしても時間がかかるようになったわけです。と同時に、自分が1日12時間、14時間机に向かっていても耐えられた状態ではなくなりました。1日7時間が限度になりました。あとは休んでるか、おしゃべりしているか、飯を食っているかね。打ち合わせとか、これをああしろとかこうしろとか言っている時間は、あれは僕にとっては仕事ではないんです。それは余計なことで、机にむかって描くことが仕事で、それが何時間取れるかということ。これはねえ、この年齢になりますと、どうにもならなくなる瞬間が何度も来るというね。その結果、何をやるかというと、鉛筆を置いてさっさと帰っちゃう。片付けるとか仕事にけりを付けるとかは一切諦めたんです。やりっ放しで放り出したまま帰ってましたから。それでも限界ぎりぎり。これ以上続けるのは無理だ、と。それをほかの人にやらせればいいというのは、それは僕のやり方を理解出来ない人の言い方ですからそれは聞いても仕方がない。今回5年かかったと言いますけれど、方針を決め、スタッフを決め、やっています。やっていますけれど、「風立ちぬ」はやっぱり5年かかったんです。そういうことを考えると、「風立ちぬ」の後をどう生きるかは、まさに今の日本の問題です。先日ある青年が訪ねてきて、映画の最後で、カプローニと二郎が下っていく丘の下に何があるかを想像すると恐ろしい思いがしたという、びっくりするような感想を言った。この映画を今日の映画として受け止めてくれたからだろうと思って納得しました。そういうところに僕らはいるんだというのがわかったと思います。

 宮崎 こんなにたくさんの方(報道陣)がくると思いませんでした。本当にお世話になりました。二度とこういうことはないと思います。ありがとうございました。
(朝日新聞より引用)

スタジオジブリ 『風の谷のナウシカ』 宮崎駿 監督作品DVD VWDZ-8006 

スタジオジブリ 『風の谷のナウシカ』 宮崎駿 監督作品DVD

(関連商品)

◆◆今日のアクセス上位記事◆◆
“プリン不倫”の桂小枝「探偵!ナイトスクープ」懲罰降板!8年間も不倫関係にあった40代女性が暴露
“ナイナイ岡村、“みの騒動”にズバッ!!「アメリカならセクハラ」「アナウンサーとホステスとか、もう分からへんようになってる、楽しくてしょうがないやろな」
みのもんたの「セクハラ」はセーフで、加藤浩次の「爆裂お父さん」はアウトで、BPO審議入り?
【特集】ジャニーズタレントの出身校&偏差値

★もっと芸能ゴシップを読みたい方は←エンタメランキング

★もっと芸能ゴシップを読みたい方は←エンタメランキング

↓今日の記事に興味があったら、クリックで応援してね!↓
人気ブログランキングへにほんブログ村 芸能ブログ 芸能裏話・噂へ


★厳選!新着芸能情報★
IP分散
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。